不思議な青い鳥

この前まで読んでいた小説の始まりに青い鳥が出てきたんだけど、その小説では、時間が経つにつれて、主人公の少女はそれが現実だったのか幻だったのかがわからなくなっていくんです。あの有名な童話とはまったく違うお話なんだけど、清々しい朝の雰囲気にそれはぴったりでした。そして、きっとイイことがありそうって少女は思います。けど、その気持ちはすごくよく理解できます。私も普段見たこともない鳥が朝の空を飛んでるのを見たときには、絶対にイイことがあるって思いましたもの。だって、私が見た鳥は、青くはなかったけど、動物園でしか見たことがないほど大きかったんです。それも、「くあーっ」っていう鳴き声を上げてたんです。それは絵本で見たことがある『コウノトリ』を少し茶色くしたような感じでした。もちろん、見たのはたった一度きりで、その後は現れていません。それも小説と同じです。けど、果たしてどんなイイことがあったのか……。そこの記憶はないんですよね。だから、私にとっては、イイことがありそうって思って、絶対にイイことがあったはず、なんです。もしかしたら夢だったのかなとも考えてみるんですけど、たぶん現実だと思います。
物語の少女は、またあの鳥がやって来ないかと、時折、朝の庭を眺めています。実は私も時々、空を見上げているんです。あの幸せの鳥、もう一度現れてほしいです。

車窓に映る私の向こう

先日の仕事の帰り、まだ夕方の通勤ラッシュの時間だったから結構混んでいて、座ることができませんでした。始発駅でもないかぎり、たぶん座ることなんて絶対に無理です。あとは、たまたま自分の前の席が空いたときにしか座れません。先日は結局、ずーっと立ちっぱなしでした。だから、電車での読書タイムはナシでした。
その日、何気に正面の窓を見ていたら、自分自身が映っていまいた。「お化粧がとれてない?」とか「疲れた顔をしていない?」なんて思って窓に映る顔を見ていました。そうして、自分自身を見ていたら、私の向こうに夜景があることに気づいたんです。もちろん、初めから車窓には景色が見えていたはずなんです。でも、人の目って不思議ですよね。見ているものしか見えないんです。さっきまでは窓には私の姿しか見えていなかったのに、意識が変わると夜景がはっきりと見えてきたんです。川が流れていてそこに灯りがいくつも見えました。そして、それを見ていたら、なんだか懐かしい気持ちになったんです。この雰囲気って、あの小説の雰囲気だって思い出したんです。頭の中に浮かんだのは、本の表紙のカバーです。実際に、その小説のカバーがその夜景みたいだったのかどうか……。家に帰ってからすぐに本棚を探しました。そしたら、驚くことに、これだって思っていた本は全く違う表紙でした。イメージって自分で作り上げてしまうものなんですね。きっと、その小説のストーリーとあの夜景に何か重なるものがあったのかもしれません。

これは海外の物語!?

たまたま見つけて読んでいる小説があります。見つけて、というのも、本屋さんでではなく電子書籍です。だから、本当にたまたま、なんです。本屋さんの場合は、本を手に取るからある程度実感があります。あらすじや帯を読んで、中をパラパラとめくってみて、面白そうかどうかを判断します。けど、電子書籍の場合は違います。大まかなあらすじは書いてあるものの、書き出しの方だけ少し試し読みができたとしても、パラパラと中身を見ることはできません。だから、ある意味賭けです。
これはタイトルが気に入ったのと、表紙が爽やかで私の好みだったから選んだんです。でも、読み始めたら、「これは日本のお話?」と疑問に。海と空や砂浜が登場するんだけど、なんだか地中海をイメージさせる部分もあれば、日本の片田舎かなと思わせるところもあります。実は、未だこの物語が海外のお話なのか日本のお話なのかが掴めていないんです。紙の本ではまずこんなことはありません。全体像を見ることができていないからです。登場人物は、私とママ、そして友人。ただ、友人の名前がカタカナだから海外の可能性が高いかもしれません。そして、実は、主人公の少女、「私」の年齢も定かではないんです。始まりのイメージでは小学生かと思ったけど、友達とサーフィンをしに行ったり、誰かと誰かが付き合っている、という一節があるから、中学生か高校生か……。とにかく、今までにない不思議な小説なんです。この先を読むのが楽しみです。

著書の中の名言

夏目漱石は、小説や評論のなかにいくつもの名言を残しています。私が今までに見かけたものはどれも的を射ています。だから、夏目漱石という人が素晴らしい人なんだなってつくづく思うんです。
先日も、彼の評論の中にある一節を読みました。それは「どんな人でも人々から切り離されて新しい道を行ける人はいない」という一文です。「どれほど独創的なものでも、単独で急に生み出されることはない。そこに至るまでの先人が築いた基礎がある」といった内容です。なるほどなぁって感心します。普段、新しいことを始めなきゃ、とか、まだ誰も思いついていないことを考えなきゃ、なんて思って、近道はないかと模索しているんだけど、それは間違いなんだなって思いました。地道に研究や実績を学んで模倣してこそ、そこから新しい道へと踏み出せるものなんだそうです。そういえば、有名な画家さんがその昔、ルーブル美術館に通いつめて、名画の模倣をしたという話を何かで読んだことがあります。小説を読まない人には小説は書けないと誰かが語っていたのも聞いたこともあります。模倣や研究があって、それが基礎になるから新たなことを見つけられるんです。だとしたら、いきなり何かイイことがないかなって思っていた私は、絶対に無理なことを望んでいたっていうことですよね。

目の前にひこうき雲

先日の朝、車で駐車場から出たときに目の前に飛び込んできたのは、真っすぐに伸びたひこうき雲でした。フロントガラスの真ん前を横切るように見えました。先の方はうんと細くなっていると思ったら、そこには、まさに飛行機が飛んでいたんです。運転していた私は、「おっと、危ない、危ない」と視線を道路に戻しました。でも、あんなに綺麗なひこうき雲を見たのは久しぶりでした。子供の頃はもっと頻繁に見ていた気がするなって思っていたんだけど、そもそも大人になってからは昼間は仕事をしているから、あんまり空をゆっくり見る機会がないということなのかもしれません。
その時、運転しながら、私はひとつの小説を思い出しました。物語の中にひこうき雲が出てきたんだけど、それを『蜘蛛の糸』の物語と織り交ぜて主人公が語っていたんです。主人公の男性が幼い頃、ひこうき雲を見たときに、それがスルスルと自分の目の前に降りて来て、それにつかまって未知の世界に行くという空想をしていたという一節があるんです。でも、そのイメージってよくわかります。以前、私はほぼ縦にまっすぐに伸びている雲を見たことがあって、その時も『蜘蛛の糸』か『ジャックと豆の木』かという空想をしたものでした。空を見ていると、大人になった今でも、なんだか子供の頃の気持ちを思い出してしまうものですね。

『ごちそうさま』の返し言葉

先日、小説を読んでいたら、一人の女性が食事を終えて「ごちそうさま」って言う場面がありました。そして、それに対して「よろしゅうおあがり」との返し言葉があったんです。物語の舞台が京都だったから、これは京都の言葉です。登場人物が「よく食べていただきましたね」という意味だと説明していました。小説ではそこでひと悶着あったんです。そう説明された女性は「おあがりって言われたら、今から食べるのかと思ってしまう」と反論したんです。でも、京都では『ごちそうさま』とセットみたいなものなんだそうです。そして、彼女は自分なら「お粗末さまでした」と返すと。こういう言葉って地方によって色々なんですね。もちろん、どれが正しいなんてないんだと思います。けど、ふと考えたんです。私ならどうだろって。そして、子供の時に母親はどうだったかなって。もし、私が誰かに『ごちそうさま』って言われたら、たぶんそれまでに会話があるから、「はーい。気に入ってもらえてよかった」とか「次はもう少し頑張るね」とかって話すように思います。そして、母はというと、小さい頃は「よく食べたね」とか「全部食べてお利口だったね」なんて感じだったかと思います。でも、大きくなってからは「よく食べたね」とは言われていません。もちろん「お粗末さま」でもありません。にっこり笑って「はーい」かな。
けど、何か気の利いた言葉を返せたら素敵だなって思いました。いつでも返せるように、ちょっと考えてみようと思います。

作品か人か

テレビの対談や雑誌のインタビューなどで小説家さんを見かけて、すごくイイメージを持ったら、その人の作品を探して読みたくなります。そして、読んでみたら面白かった、となれば、もうファンになってしまいます。それは、文学賞を受賞したなどけっこう話題になっている人の場合が多いかもしれません。でも、逆のことも多いです。何か目的があるわけでもなくブラブラと書店の中を見て回っているときに、平積みされている本や、時にはたまたまそのタイトルに目が留まった本から入るときです。その小説家の情報が私にあるんじゃなくて、その人に興味があるわけでもないけど、作品にはものすごく惹かれたという場合です。大概はあらすじや帯を読んでみて、あとは直感で決めます。そんな風にして選んだ小説が面白かったら、それからはその小説家さんの作品を続けて読みたくなります。中には、どれも外れがないと思える人もいます。それだけ、面白いものを書き続けられるなんて、スゴイ才能だなって思ってしまいます。少し前にも、そんなことがあったんです。本当にたまたま見つけて「イイかも」って思ったから買ったんだけど、その内容にものすごく期待をしていたかというと、そこまでではありませんでした。けど、その予想は大きく外れてどっぷりハマってしまいました。だから、このところ、続けてその人の作品を読んでしまってます。

ある意味正解、ある意味不正解

この前、小説を読んでいたら、そこに出て来た会話がちょっと気になりました。外観は全然イケてないんけど、その味が絶品だという食堂が舞台なんですけど、そこで一人のお客さんが「人も料理も外見ではわからない」と言っていたんです。その一説を読んだ時に私は、正直「そうかなぁ?」といった気持ちでした。その言葉はある意味正解だとは思いますけど、別の見方をすれば不正解だと思うんです。たしかに、外見は怖そうでも、話をしてみるとすごく優しくてイイ人だったということがあります。また、B級グルメの中には、見た目はイマイチだけど『味は絶品』なんていうものもありますものね。けど、今までにビジネスの講習などでは、第一印象が大事だと教え込まれてきました。ほんの数秒で人の印象は決まるものだって。ご馳走だって、運ばれてきた瞬間に「わぁ、美味しそう」って思いますよね。そして、食べたらやっぱり美味しいんです。そう考えたら、『どっちもアリ』というのが正解なのかな。
でも、小説に「器の良し悪しと料理は比例する」という言葉も出てきたんだけど、これはほぼ正しいように思います。小説の舞台になっている食堂も外見はどちらかというと寂れているけど、一流の器を使っているのを見て、初めて訪れた女性が「きっと料理は本物なんだ」と期待をしたんです。やっぱりこだわりの料理はいい器に盛って出したいというのが、真の料理人の心なんだと思います。

美味しい小説

小説には色んな種類があって、中には料理や食べ物が題材になっているものがあります。読んでるだけで、その料理が目に見えてきたり、いい匂いがしてきたりします。もちろん、自分が知らない料理は勝手な想像をするわけだから、本当の物とは異なったものをイメージしているときもあるとは思うんですけどね。今、読みかけている小説もそうなんです。京都が舞台なんだけど、エピソードごとに何かしらのお料理や食べ物が出て来ます。京料理もたくさん登場するから、私の頭の中は勝手な想像といわゆる『はんなり』したイメージが出来上がります。物語は衝撃の事件があるわけでもなく、小川が流れていくような感じで優しく穏やかに進んでいくんです。こういう小説ってヘタすると退屈だったりするのに、この物語は全然退屈ではありません。美味しいご馳走をゆっくりと味わうように、登場人物の心の通い合う様子や心の動きを楽しめるんです。たまには、ドキドキやワクワクでのめり込むような物語ではなく、ゆったりと癒されるようなものもいいですね。そんな中では大事件じゃなくて、ほんの小さな出来事が心をつかんで止まないんです。まだ読み始めたばかりだから、読破するにはもう少し時間がかかりそうです。でも、もう完全にハマっています。だから、これからの展開が楽しみで仕方がありません。

医療小説いろいろ

先日、医療小説ばかりを紹介している記事を雑誌で見かけたんです。かなりの数を紹介してあって、なんだかそれだけでお腹いっぱいになってしまいそうな勢いでした。なぜって、医療小説自体が軽くサラサラと読めるものではなく、どちらかというと重いテーマが多く、専門用語も多いから、ちょっと気合がいる感じがします。私はミステリー要素があるものや、若干コメディタッチの物の方が好きです。本当にずっしりと重たいものは気軽には読めないからちょっと苦手なんです。なんだか体力消耗してしまいますものね。
けど、そこに紹介されている作品には、映画化されたものや本屋大賞などの受賞作もあって、大ヒット作品もありました。医療って、人が生きて行くうえで切っても切れないものだから、みんな興味があるんですよね。そして、なにかと、問題や事件にもなりやすいですしね。
また、実際の医療現場のことは一般の人にはわからないことが多いものです。だから、小説を読んで、その立場の人のことを理解したり、考えさせられたりするものです。読むほどに専門知識が増えていくから、誰かから、「どうして、全く関係ない仕事をしているのに、そんなに医療について詳しいの?」って尋ねられるかもしれません。もし、そうなったら、ちょっと胸を張って答えてしまいそうです。読書の賜物だって。ま、頭でっかちに過ぎませんけどね。