穏やかな時間とほのぼのとした小説を読んで

ほのぼのとした小説がありました。私はそれを表紙があまりに可愛らしくて手にとったのですが、本当に内容もほのぼのとしていてよかったです。ミステリーだったのですが、主人公がマイペースで、コンビを組んでいる相手もしっかりしていそうで時折マイペース。独特のテンポがふたりの間にはあって二人にとってはそれが普通の生活。だから、迷わないし笑って物事を流していける。泣けるというより、そうだよな、これだけ気を抜いていても許されるよなぁというほっこりした気持ちになります。気が抜けているというか、肩の力を抜いて生活してもいいんだよという優しいメッセージに聞こえるのですよね。ほのぼのとした小説を書くのが好きなんです、とその作家さんはインタビューで仰っていました。そこまでシリアスな話は書けない、とも言っていたでしょうか。確かにシリアスよりのんびりしたほのぼのとしたお話の方がその方の文章は映えます。だからこそあたたかい気持ちにもなるのでしょうね。作家さん本人の人柄はわかりませんが、作風はわかります。その作風の温かさに触れた時、心が温かくなる。そんなことが、とてもうれしいです。穏やかな時間を過ごしながら、もっとたくさんのこういった本を読んでいきたいです。

ぼうっとしながら好きな本を

好きな、自分の改革にもなった小説は本当に宝物です。先日、お酒を飲みながらぼーっとその小説を読んでいました。この小説に出会ったのは高校生の頃でしたが、その時のことがありありと思い出されて切ない気持ちになりました。高校生といえば、私は一番大変だったなあ、と今になって思います。心の頼りはこの小説で、何度読み返したかわからないのにとても綺麗に保管しています。何度も何度も、私はその小説を読んだのです。文章のひとつも読み逃したくありませんでした。そんな時を、私はこの小説と過ごしていたんだな、と思うとなんだか感慨深かったです。あの頃から大学に通ったり、就職もしたり、辞めたり、アルバイトをしたり、挫折も成功も経験しました。大人になってから読むその小説は、これを頼りにしていた高校生の頃と違う感覚を受けましたね。今が一番いいと常に思うようにしている私ですが、あの頃から少しは成長出来たかな…なんて思いの外浸ってしまいました。これが好きな小説の威力というものなのでしょうか。さみしいような、うれしいような、そんな気持ちでした。同時にここまでのめり込んだ小説も珍しいな…と思ったのです。というより、その小説が一番私の人生で重要な小説だったのかもしれません。なににしろ、生涯読み返し続ける小説だなと感じます。時折でも一番大変だった頃を思い出して、こうして今の幸せを感じていたいからです。

気づけばこんなに経っていた

先日、近所の県立図書館に本を返却に行ったところ、動物のパペットをたくさんつけた男子学生たちに遭遇しました。近所の教育学部がある大学があるので、きっとそこの学生さんなんだと思います。私が子どものころ、この図書館の子ども図書室やレクレーションルームに通っていたときに、よくそこの大学の学生さんが、読み聞かせや紙芝居をやってくれたことを思い出しました。子ども用のものがたくさんそろっている図書館って、お母さんたちにもありがたいですよね。紙芝居は一人一冊までしか借りることが出来なかったので、厳選した一冊を、貸出期限の間何回も家で楽しんでいた思い出があります。今でもまだ一冊制限なのかな…とか、色々な想いを馳せました。月日が流れるのはとても早いですね。ついこの間まで(といってしまうのは、さすがに言い過ぎかもしれませんが)、私はあの大学生たちに、読み聞かせをしてもらう立場でいたような気がするのに、ふと気づけば、それらを懐かしい気持ちで眺める立場になっているのです。あのころは「大人の人が読む難しい本が並んでいるエリア」にも、読みたい本を求めて入っていくことが出来るし、「大人だとひょいひょい使えるパソコン」と思っていた検索機も、使いこなせるようになっているのですから。

お姉さんと私

一回りほど年齢が離れた、親戚のお姉さんがいます。お互い、他に年の近い親戚がいなかったのもあって、子どものころから仲良くしていました。一回りが「年が近い」とは言えないという人もいるので、私の方が一方的に懐いているように見える感は否めませんが…。それでも、本当に子どもだったころと比べれば、少しずつ共有出来る話題や感覚も増えて来ているので、偶に会って食事をしたり、買い物をしたり、おしゃべりをしたりするのはとても楽しいです。お互いに、好きなものも似ているんですよね。好きな作家や、音楽のジャンルや、甘いケーキなど。お姉さんの方が、海の近くに住んでいるので、二人でポットにお茶をいれて、海辺でゆったり読書をしたこともあります(長続きはしませんでした。潮風がキツいし、落ち着いていられなかったのです。二人の憧れが似ていたというだけで、突きつけられた現実は想像とは違ってしまっていました。割とショックでしたが)。お互いにメールや電話はあまりマメな方ではないのですが、それでも、SNSツールでたまに交流したりします。便利でいいですね。こういう付き合いがひとつあると、毎日が楽しく、ふと疲れた日にも息抜きが出来ていいなと思っています。

朝までありがとう本屋さん

私が今住んでいる家の近所に、朝までやっている本屋さんがあります。朝の5時とか、早い日で4時とか。以前住んでいた地方は、夜の10時くらいには絶対に本屋さんが閉まってしまっていたので、とても嬉しかったです。終電で帰宅するときも、帰り道に本屋さんの明かりがついていると、ついつい立ち寄ってしまうんです。一刻も早く自宅に返って、ごはんを食べてお風呂に入って、眠ってしまいたいような、そんな疲れきった日でも、本屋さんにはつい立ち寄ってしまいます。何を買うわけでもなく、本棚を見て回っているだけで、一日でギリギリまですり減った体力ゲージが、ほんの少しだけ回復するような気がするのです。体力というよりは、気力なのかもしれませんね。病は気からと言いますし。本屋さんに立ち寄ること出来ないような、へとへとに疲れ切った日なんかは、そこに開いている本屋さんがあるというだけで救われるときもあります。これは私が本が好きだからだとも思いますが、そういう何か心の支えになるものって、誰しもあるものだろうと思っていますよ。夜中に、ふと「新刊が出ていたんだ!今すぐ読みたい!」と思ったとき、朝までやってくれている本屋さんって、とてもありがたいですしね。

何度も何度も読み返す

一番お気に入りの本って、何度も読み返してしまいます。もう展開も分かっているし、どの辺りでどんな風に場面がかわるかも知っているんです。下手したら、登場人物のセリフだって、ソラで言えてしまう部分があるくらいです。もちろん、全部のページというわけにはいきませんが、ほとんどそれに近い状態のものもあります。それでも何度も読み返してしまうのは、一体どうしてなんでしょう。未だに、手にとってページを開けば、わくわくしてしまうのはなんでなんでしょう。ふと、まだこの本を一度も読んだことがない人のことが羨ましくなることがあります。私はもう知ってしまっている展開を、その人はまったく知らないわけですから、いくらでも楽しむことが出来るんだなと思うんです。悔しい気持ちもあります。自分は既に読んでしまっているというだけなのに、ちょっとおかしな話だとも思うんですが…。「まだこの楽しみを味わえるなんていいな」というやつです。でも反対に、何度も読み込んで、それでもまだ読みたいというこの楽しみは、初めて開く人には決して味わうことが出来ないものですよね。人によって、場合によって、様々な楽しみ方があるのはとても素敵で、楽しいことだと思います。

やるせない最終回

ずっと好きだったシリーズや続きものが終わってしまうと、どんな形であれ、ものすごく寂しい気持ちになります。キレイな形で終わっていたら、「良い作品だったな」と思いつつ、やっぱり未練があって、魂が抜けたような気持ちになってしまうこともあります。不本意ながら、話の終わり方が納得出来るものではなくて、「どうしてこんなことになっちゃったの?」と悲しい気持ちになってしまうこともあります。こんなときもやっぱり、魂が抜けたような気持ちになってしまうんですけどね。作者に感情移入するか、作品の感情移入するかでまた話は変わって来ますが、たまに「どうしてこんなに好きな作品を、こんな形で終わらせてしまうんだ」という気持ちを抱いたりもします。一見憤りのようなのですが、やっぱり悲しみなんですよね。打ち切りという制度も存在してしまっているので、不本意ながらその結末にならざるを得なかった作品というのもあるわけで…。力量不足と言ってしまえばそれまでですが、そんなことばかりでもないですもんね。小説にしろマンガにしろ、運やタイミングも結構ありますから、もちろんそれらを組み込んだものを作って、「うんも実力のうち」と言えればいいのでしょうけれど…。

おそるおそる、こわごわ

大好きな小説のコミカライズって、読むのが楽しみな反面、不安な部分もあります。ファン心が行きすぎて、並々ならぬ思い入れをしてしまっている登場人物のデザインが、想像していたのと全然違ったらどうしよとか…。そういうことをたくさん考えてしまうのです。言動なんかも、文字だけだったらあれこれ想像出来たところを、実際の絵にして、マンガで動きをつけていくと、「想像していたのと全然違う!」と感じられてしまうことがあるんです。いつもいつもというわけではないですが…。自分の中では、想像していたものが最も正しい形になってしまっているのですが、なんせ公式設定はコミカライズされた方ですから、自分の中で信じていた作品の形が、思いもよらぬところで崩されてしまう可能性もあるんですよね。愛着もわきすぎてしまうと、こういうときに結構不便で、大変です。ただ、それを上回る感動に出会うことも多いので、コミカライズをはじめとするメディアミックスには、ついつい手を伸ばしてしまいがちです。「私の中の作品像はこうなっているから!」と突き放して、メディアミックスされたものにまったく触れないで生きていくのもまた寂しいんですよね。複雑な心境ですが、これも楽しめるようになるでしょうか。

塗りながらなにか出来る?

マニキュアもペディキュアも、塗っていると部屋の中にすごくにおいがこもりますよね。適度に換気をしながらやらなくちゃいけないのは分かっているのですが、窓を開けられないシーズンだったり、うまいこと換気扇がついていない場所だったりすると、なんとなく我慢すればいいかな~と思って、やり過ごしてしまうことが多いんです。私の場合や、周囲の友人の場合は結構これが多くて…。爪の手入れをしているときって、肌のお手入れと一緒で、一日の中のリラックスタイムに相当している人も多いですからね。もちろん、気合いをいれたオシャレということで、全然気が抜けず、「リラックスなんて生ぬるいことを!」っていうくらいの人もいますが…。友達とお泊り会なんかをすると、大抵誰かが塗り始めるので、もう誰も「シンナーくさい!」と文句を言わなくなっていた気がします。以前、小説の続きを読みつつ塗ろうとしたら、本に垂らしてしまって、これは駄目だと断念したことがありました。雑誌を広げながら、足でうまくストッパーをつくって塗っている友人もいますが、少し行儀が悪いので避けたいところで…結局、きちんと手元でやっていることに集中した方がいいんだろうなという結論に至るのです。

四季のある国

四季がある国に生まれて良かったなと思うのは、自分で実際に情緒ある風景を見たときでもあるのですが、一番強いのは、やっぱり本を読んだときです。短歌や俳句などの作品から、小説や詩、マンガに至るまで、四季の影響を受けた言葉や演出、風景って、とにかくたくさん織り込まれているんですよね。ルールに「季語を入れなくちゃいけない」なんて、美しい四季があって、なおかつその四季を愛するために様々な言葉で言い表した人がいなければ、構成されないものだと思います。そのくらい、日本人は昔から四季を愛して、大切にして、側においておこうとしたんだと思うと、胸があつくなります。読解をきちんとしない限り、ぱっと読んだだけでは全然分からないような俳句でも、ふとした言葉の欠片から四季を感じることが出来ると、それだけで満ち足りた気持ちになることもあります。時代が変わるにつれ人も文化も変わって、たびたび「日本語の乱れ」ということが騒がれる世の中ですが、そんなに捨てたものでもないのかも、と感じるときもあります。絶対数が減っていくのは悲しいですが、文化として受け継がれていく四季の言葉は、忘れられることや、使われなくなってしまうことはないように思うのです。